原宿に雅楽…その正体は?

夜8時ごろ、原宿から渋谷へキャットストリートを歩いていたら、

どこかともなく聞こえて来た雅楽の音色。

およそ若者の街には似つかわしくない。

 

音の出どころに近づいていくと、打ちっぱなしのコンクリートの建物らしきもの隙間に緑色に浮かび上がる和装の二人。どうもその二人が生演奏しているらしいが、意図的なのかたまたまなのか、コンクリートの壁に隠れて首から上が見えなくなっていて、実に異様。たまらなくなってしゃがんで隙間から覗き込んだら、和装の一人が東儀秀樹さんだったから、さらに驚いた。

 

ボッテガヴェネタの関係者用イベントだったらしく、お客さんはその関係者と、音色に引き寄せられた数人の一般客だけ。ここにボッテガの新店舗ができるのか、記念式典をここでやっていただけなのかはわからないが、東儀さんは流暢な英語と日本語で関係者向けに曲の説明をしながら、ひっそりと数曲雅楽を奏でていた。

海外ブランドの店が立ち並ぶ、全く日本的ではないファッション街で、イタリアブランドのために雅楽を演奏するというのも不思議だが、一瞬にしてその場に純日本的雰囲気を運んでくれるのが雅楽のパワー。

 

ちなみに隣にいたのは東儀さんの息子さんとのこと。『越天楽』とか『ふるさと』とか『誰も寝てはならぬ』とか、多分それら全ての曲を父と一緒に演奏していたのだった。

 

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反戦への熱いメッセージ(『ドラゴンボール超 スーパーヒーロー』)

小中学生らしき子供たちの中に混じって観て、

まさかこんなに感動するとは思ってもいなかった

ドラゴンボール超 スーパーヒーロー』

 

そりゃ僕自身、小中学生の頃に連載されていた原作をリアルタイムで読んでいたし、その後のアニメシリーズや劇場版も一通り追いかけていて、普段、ドラゴンボールに何の関係もない話の中で「要するに悟空とベジータのような関係性」やら「ヤムチャのように一時的に活躍するがいつの間にか消えていくキャラ」などという比喩が思わず出てきてしまうくらいには思考に影響を与えている作品。だからこそ、映画の中に散りばめられた、往年のファンを楽しませる過去の引用の数々に歓喜もしたし、悟空やベジータフリーザの影に隠れてあまり前面に出てくることのなかったピッコロ様を大フィーチャーしてくれたのもたまらなかったけれど、それより何より感動したのは、この映画が単なる過去の焼き直しや懐古趣味なんかを大きく飛び越えて、しっかりばっちり現代性を備えていて、戦争、そして平和への願い、現代におけるスーパーヒーローとは何なのか…などという今を生きる人達に届けたいメッセージを、ものすごく噛み砕いてギャグをふんだんに盛り込みながら、真っ向から発信していたことだった。

 

過去作で何度も地球を危機から救ったZ戦士(悟空達)は、見方を変えれば誰かにとっては悪かも知れないという目線で始まる導入からワクワクするし、小さい頃から彼らは悪だと思い込まされて育てられてきた発明家や人造人間が、ある局面で闘うことの愚かさに気づき苦悶するという展開も美しい。そしてたぶん核兵器のメタファーとして登場してくる最後の新キャラはもはや誰の手にも追えない。彼らがそれにどう挑むのかというラストまでアツい。

 

また、ピッコロと悟飯を主役にするという方向に振り切っていて、今までずっと作品を引っ張ってきた悟空やベジータが、この映画の中では一線を退いた退役軍人のような扱いなのも面白い。昔は国のために闘ってくれていた彼らが、どちらが強いか確認するためだけに模擬戦に終始する様子は、さながら軒下で将棋を打ち合うおじいちゃん達のようだ。

 

全体通して観たらご都合主義的な展開もあるし、そもそも神龍ってそんなことができる設定だったっけ?などと色々思うこともなくはないが、そんなことはもうどうだっていいんだ。フルCGのスピーディーな映像、今までの主役を後ろに追いやっても充分やっていける各キャラクターの魅力、そして真摯なメッセージを決して偉ぶって語ることなくエンターテインメントとして見せきる姿勢に、大人の僕もしっかり感動させてもらったのだから。

 

入場者プレゼントとしてもらえるイラスト。裏はそのシーンの台本になってます。
いいプレゼントですね

#あとパンがかわいい

#人造人間もいいキャラしてる

#ドラゴンボール超スーパーヒーロー 

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名前を知らないがよく知ってるやつ

君はそんな名前だったのか。

スリッキーN。

ラーメン屋などで見かけるあいつ

 

「スリッキー」はまあいいとして、「N」とは何なのか。

数分間の調査によれば、箱上面にある「ヘラナイ・ワレナイ・シメラナイ」の「ナイ(NAI)」の頭文字に由来するという説が有力だが、真偽は定かではない。

これが由来か

 

#名前を知らないけどよく知ってる

#実はすごい発明品 #発明品 

#製造元は愛知県名古屋市の角大産業 

#スリッキー #スリッキーN #design 

なによりも大事なのは信頼(ケンタッキーフライドチキン考)

仕事において、ひいては人間関係において、

信頼感というのは何より大事だと常々思う。

 

例えば僕の自宅には、UberEatsで頼めるケンタッキーがほぼ同距離に2店舗ある。

配達パートナーの状況によってどちらの店でも何度も頼んだことがあるのだが、繰り返し食べているうちに気が付いたことには、どうもA店の方がB店よりオリジナルチキンが美味い確率が高い。日によってバラツキは多少あるが、明らかにA店の方が「脂身の少ないカスカスの肉でも美味い」可能性が高いのだ。

 

と言っても、同じファストフード店

気のせいなんだろうか。

いいや。気のせいではない。

同じファーストフード店とは言え、

働く人の能力によって味に違いが出るのは考えてみれば当然のことだ。

KFCの味を落とさずさらに良くしようと努力している人がいる一方で、

KFCの名前に頼ってサボっている不届きな輩がいるのだ。

飲食店に限らずどこの企業にだってそんな奴はいくらでもいるではないか。

 

と思いながらも、配達パートナーの都合でまたB店で頼んだりする。

するとやはりあまり美味くない。

A店はどうか。やはり美味い。

そういう経験を繰り返しているうちに、一つの認識が出来上がる。

「A店は優秀」だが、「B店はイマイチ」。

 

一旦その認識が出来上がってしまうと恐ろしいもので、その後B店の出したものが美味しくない場合は「やはりここはいかん。二度と頼むものか」と思うが、仮にA店の出したものが美味くないときがあっても、そうは思わなくなってくる。「今日はたまたま調子が悪かったに違いない。次はやってくれるはず」と思うのだ。

この先明らかに美味しくない回が何度も何度も続かない限り、簡単にその認識が覆ることはないだろう。信頼というのはすごい。

 

自分も、周りから信頼される人間でありたい。

食べ終わったあとの鶏の骨を眺めながら、ガラにもなくそう思う。

鶏ガラだけにね。

カーネルサンダースも信頼を築き上げて来たのだ



 

#KFC #ケンタッキーフライドチキン 

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#三鷹野崎店 

恐竜はロマン(映画『ジュラシックワールド3 新たなる支配者』)

恐竜っていうのはロマンなんです。

太古に思いを馳せるロマン。

 

現実にこんな生き物がいたら…と考えるだに胸が高鳴り、その大きさや獰猛さを想像するだに畏怖が生まれ、それが一気に絶滅してしまったという壮大なスペクタクルに深い哀愁を感じる。そういうロマンなんです。

 

映画『ジュラシックパーク』シリーズも最初はそうだったのだけれど、回を重ねるごとに(あの物語世界においては恐竜の存在が当たり前になってきてしまうから仕方ないという事情もあるが)徐々にエンターテインメント要素が増え、それでもパーク3部作までは「文明化された都会に恐竜が上陸」とか、「捨て去られた恐竜パークに行ってみたら恐竜が繁殖してる」とか、形を変えてロマンがまだ引き継がれてだけれど、ワールドからは恐竜がボカンボカン出てきて暴れまくる要素が膨らんでいき、最終作となる『ジュラシックワールド 新たなる支配者』にはもはやロマンなど一欠片も残っていない。

 

これじゃあもう他のモンスターパニック映画と一緒。

映像はすごいし要所要所いいシーンもあるけど、特に恐竜である必要がない。

それが恐竜好きとしては非常に残念です。

 

#あとイナゴ気持ち悪いし

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街で見かけた謎の銅像2選(時期外れの帰省7)

滋賀の回想③

 

街には、一見見過ごしてしまうような銅像がたくさんある。

どういう経緯で作られて、なぜそこにあるかわからないような銅像が。

 

そしてこれは、僕の母校である滋賀県彦根東高校の中庭にあった銅像

見た目の古さからいって、おそらく僕が通っていた20年ぐらい前にもあったのだろうが、全く覚えていない。

母校彦根東高校にある彫像

しかしなぜにこんなにエロティックなのか。

高校生たるもの多感であり、男子など間違いなく精子脳であり、そんな高校生に何を感じさせたいのやら意図が全くわからない。ここに設置することを前提に作られたのであれば、むしろ制作者のセクハラまがいの歪んだ性欲すら感じるのだが、考えすぎなのだろうか。

(ちなみに台座に書かれている「求めよ 普く」は校歌の一節。それでも意味はわからんが)

 

ついでにこちらは、

東海道五十三次の52番目の宿場町として知られる

草津本陣の近くの商店街にあった銅像

 

趣味で作られたものだと思うが、どことなく高田純次似。

草津本陣近くにあった銅像

 

 

 

生まれついての小悪魔との再会(時期外れの帰省6)

滋賀の回想②

 

琵琶湖を見に行ったときにカメラを構えたら、

何も言っていないのに妙に大人びたポーズを決める。

実家で会った姪っ子(姉の娘・5歳)の小悪魔感が、会うたびに増していっている。

姪っ子(5歳)※油絵加工しています

東京では一年ぐらい前にも会っているとは言え、それぐらい間が空いたらいくら親戚でも最初は少し人見知りしそうなものだが、顔を合わせるなりただ黙ってすっと僕の元へ歩み寄ってきて、「おじさん!」だとか「こんにちは!」だとか言うこともなく静かに抱きつき、そしてしばらくそうしている。

 

リビングにいると頻繁に「遊ぼう」と言ってくれるのだが、なぜか必ず二階の僕の自室に誘い、隠れる気などなさそうなバレバレのかくれんぼや、くすぐりあいなどをしたがり、外に出かければ頻繁に抱っこを求め、車に乗れば隣に座ってくれと言い、隣に座ればずっと手を繋ぎたがる。

 

朝も必ず僕を部屋まで起こしに来ては、全然出ていかないので着替えを始めると、「裸見ちゃった」と嬉しそうに言い、続けて僕の鞄からマスクを奪ってつけては突然階段を降りてリビングにいるお母さん(僕の姉)の元へ行き、「おじさんのマスクしちゃった!」とはしゃいでいる。

 

おじさんとしてはもちろん嬉しいのだが、それらの振る舞いは子供のそれというより、完全に小悪魔女子の、さらに言えば魔性の女のそれであり、子供というより女が意識されて、だんだんやっちゃいけないことをしてるような気にさせられる。そしてその振る舞いは決して僕に対してだけやっているわけでもないだろうが、僕にだけやっているような錯覚を与えるぐらいにためらいがない。生まれながらに男を狂わせる才能を持っているとしか思えない。

 

別れの日。

姉家族は東京へ帰り、僕は大阪へ行く予定で、

「明日は大阪で友達と会うんや」と姪っ子に告げると、

「ふーん…その友達の名前は?」と聞いてきた。

ソフトな束縛。これもテクニックの一つなのだろう。

本当に、末恐ろしい。